オーナーシェフからのご挨拶 

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ふとしたきっかけから始まった私の中華料理のキャリアですが、今では私の職業となり、唯一の誇れるものです。 

いつしか中華料理の奥深さに魅せられ、「もっとおいしい料理を作りたい」と、寝る間も惜しみ一心不乱に修行を重ねた日々。 振り返ればすべてが自身の運命だった様にも思います。 

「中華料理でいつか頂点に立ちたい」この思いは15歳から中華料理の道に進むと決めて現在に至るまで、一日たりともわすれたことはありません。 その思いだけで中国に渡り、裸一貫から始めたお店が「光燕」です。

まだまだ夢半ばではございますが、皆様のお陰で「光燕」、また、私自身、年輪のごとき成長を遂げて参りました。

今後も皆様の期待にお応えするべく、現状に甘んじることなく一刻一刻を大切にし、日々成長していく所在でございます。

 

オーナーシェフのプロフィール履歴

1999年 当時15歳 地元の静岡で中華料理のキャリアをスタートする。

2002年 当時18歳横浜中華街の老舗の名店「重慶飯店」にて修行。

2006年 当時22歳本場を目指し、中国、上海へ移住。

2008年 当時24歳中華料理「光燕」をオープン

2013年 当時29歳「光燕」を拡張移転 現在に至る

上海の中華料理 光燕 | オーナーシェフ 内田達仁

上海の中華料理 光燕 | オーナーシェフ 内田達仁

中国で日本人が中華料理店を営むことは、日本で中国人が寿司屋を開くのと同じくらい難しいということは想像に難しくない。

単身上海に乗り込み、日本人投資家との出会いから上海で中華料理店を開くチャイニーズドリームを掴んだのは、28歳(※2012当時)の若き中華料理シェフ。中華料理で中国人の舌を納得させるまでのヒストリーを内田氏に聞いた。

上海市内で、今でこそ日本食が軒並びゴールドストリート化している「仙霞路」。その中心に日本人が経営する中華料理店「光燕」は店を構える。連日満席で、中国人常連客も多い。5年前はローカル中華料理店だらけだった場所だ。

光燕」のオーナー兼シェフは内田氏。金髪の28歳(※2012当時)である。15歳で中華の道に入って以来、中華料理一筋で今に至る。
実家のある静岡の温泉町・伊豆長岡で、中華料理人生がスタート。

「もともとワルだった。どこいってもダメだったが、何でもいいから働きたくて、友達の紹介で中華料理店でアルバイトを始めたのがきっかけ。先輩ヤンキーが、鍋や包丁を持った瞬間に人が変わるのを見て、かっこいいなと憧れ、そこから漫画みたいにずっと一生懸命に中華を勉強した。」

高校卒業後の修行の場に選んだのは、「横浜重慶飯店」。横浜中華街の中でも歴史ある店だ。

光燕|店内内装

光燕|店内内装

「(外観が)でっかくキンキラだったから。」という理由で選んだ重慶飯店は、専門学校卒以上しら入れない敷居の高い名店で、同期との収入も4~5万円違うスタートだった。その後、日々の努力が認められ、料理長から40年大切にしてきた中華料理本「中華料理百科理論」と名菜譜抜○600選」(現在廃刊)を贈られる。毎日熟読して勉強しているうちに、そこに書いてある料理と自分が毎日作っている料理が違うことに気付いた。日本の中華料理と中国の中華料理は全く違う。

「中国にはいずれ行きたいと思っていた。日本の中華は結局日本のもの。本場の中国で学びたかった。」

2003年、北京・上海旅行で初めて中国を訪れた。北京で見学した本場の厨房はメニューがなく、食材を選んで、それを調理人が作るというスタイルだった。本場を知らない井の中の蛙であった自分に気付き、本場を知らなければいけないと痛感し、中国入りを固く決意した旅行だった。

しかし、中国へ単身進出する方法が分からなかった内田氏は、ネットの提示版に、「どうしても本場の中華を学びたい。誰でもいいから中国にいける方法を教えてほしい。」と投稿し、留学生として上海へ行くことを決意。すぐに、パスポートとビザ、高校卒業証明書、学費と生活費の約60万円、そして、片道切符のエアチケットを用意した。

「(お前のように中国へ行って、いまだ一人も成功者はいない)と職場の人をはじめ、周りの人に反対された。さらに、当時は靖国問題で日中関係は緊張の最中で、反日感情が高まっている時だっただけに、知り合いの中国人にも反対された。」

それでも内田氏の心は固まっていた。

「100人行ってだめだったなら、俺が101人目になってやる。」

何があっても中国で一旗あげないと帰れない状況に自分を追い込むために片道切符で上海へ渡った。

上海では日本人人口が世界で2番目に多く、約10万人と言われている。中国で言葉が通じなくても、日本人街など場所によっては十分に生きていける。その環境に甘えて、周りの留学生は遊びで終わってしまう人間も少なくない。

内田氏は「自分が最大のライバル。」と追い込み、生活費は毎日10元。5リットル1元の水と3元のラーメンで生活し、6か月間、1日14時間勉強した。その後、学校に通いながら「上海銀河賓館」ホテルの中華料理店にてインターンをすることになった。

光燕|店内内装

光燕|店内内装

「日本人として初めて厨房に入らせてもらったが、最初は何もやらせてもらえなかった。」

頑張って身につけた中国語も、上海語と標準語の言葉の壁を越えられず、嫌がらせもうけた。全て自分の夢のために我慢したある日、料理長がスタッフ全員を集めた。

「お前ら俺の白衣を見ろ、キレイだろ?内田の白衣を見ろ、もっとキレイだろ?それだけで内田が日本でどれだけやってきたかがわかる。」と料理長に認めてもらった。

それから、鍋を振ることを許された。材料を切る仕事も、前菜を作る仕事も、次から次に任された。
中国の厨房にはオールラウンドプレーヤーがいない。鍋を振る人は30年間鍋だけ振る。そんな中で、日本の修行場で活躍した内田氏は、中国の仲間に腕を認めてもらい、仲間の輪に入ることができた。

しかし、ビザの期限問題でインターンを辞めざるを得ないことに。直談判もして、職場の仲間も応援してくれたが、どうにもならない問題であった。

「その時、(日本から中国に)100人行っても全員ダメという意味がわかった。日本人であること自体が問題になることもある。」

他の上海のホテルでは和食の職人であれば、職はあった。だが、それでは自分が上海にいる意味がない。

面接三昧の日々の結果、何とかビザ有効期限内に就職できたのが、浦東の「上海中油陽光大酒店(元上海中油日航ホテル)」すぐに実力を認めてもらい2007年23歳でマネージャーを任された。

「そろそろ自分のお店をやりたい、でもお金がない。そう思っている時に、(日本の中華と中国の中華を作れて、中国語が話せて、マネージャー経験のある人)という求人サイトが目に入った。まさに自分のことだと思って、即メールをした。」

これがきっかけとなり今の会社の日本人投資家パートナーに会う。

「今まで何十年も一生懸命会社をやってきたのは内田に会うためだ」と、その投資家パートナーに言わしめた。まさに運命の出会いである。

光燕|内田氏の彫刻

光燕|内田氏の彫刻

そして、ついに2008年7月、24歳で独立、上海で自分の店を持つという夢が実現した。店舗規模は、130平米52席。家賃は約4万元。立地は今でこそ日本料理屋が並ぶ賑やかな通りだが、5年前は何もない暗いローカルエリアだった。

「上海市内であれば、タクシーに乗ればどこでも行けるから場所はどこでもよかった」と、不動産屋に最初に紹介された物件で即決した。

初期投資に関しては苦い出来事があったという。

「現地にいた日本人に騙された。(現地に)住んでいる日本人に気をつけろ。)とよく言われるが、日本人だとつい安心してしまう。確かに今思えばおかしかった。契約書がなく、金を最初に全部払えと言われた。普通は最初に30%、店が完成したら60%、残りは半年後に問題等なければ10%支払う。ある日、現場工事のスピードが遅く、「早くやってくれ。」と言うと現場スタッフが「給料をもらってないから。」と答える。よくよく調べてみると、業者との間に入っていた日本人がお金を搾取していた。「自分でやるしかない。」と肌身をもって知った。」

さらに、内田氏を追い込んだのは開店から約3か月後の10月にリーマンショック。現地人はもちろん、日本人の消費も冷え込み、赤字が続く。準備資金も底を尽き、自分の人件費をゼロにしても、従業員への給料の支払いができない状態に、死ぬことも覚悟したという。

しかし、リーマンショックの傷痕が消え始めた7か月目で売り上げが上がり出し、開店から3年で月商40万元を超える連日満席の繁盛店に育った。

客単価は150元~200元。中華料理が身近で50元~60元と安価な存在である中国人にとって、この値段は高い。しかしながら、中国人は日本人シェフだと分かって来店する。さらに、フリーペーパーの年間アワードで人気ランキング2位となり、中国人ファンも増えている。

そんな光燕の人気メニューは、中国の家庭料理代表「麻婆豆腐」だ。メニュー構成や味付けで中国人または日本人向けに工夫している点は、特にないという。

「中国人や日本人向けに作っているわけでもないし、本場のものが全部おいしいわけではない。自分流においしいものを作っている。」

現在、調理人は6人で全員中国人だ。日本人が中国人に中華料理を教えるという不思議な光景だ。

「自分のお母さんに作ってあげるように料理を作りなさい。」と常日頃指導している。でも、一番の指導方法はやはり背中を見せることかもしれない。40度の高熱でも厨房に立ち続ける姿を見せている。」

そんな内田氏を尊敬し、その魅力にひかれて開店当初から残っているスタッフも多いという。

最後に、内田氏に今後の目標を聞いてみた。

「将来はでっかいことをしたい。上海NO,1中華レストランを作りたい。店舗面積を大きくして、個室を作り、完全予約制の店、店舗展開は考えていない。自分が(店を)見たいから、料理長で居続けたい。」

「目標は鼎泰豊(ディンタイフォン)。11時オープンなのに開店すぐに満席。それが毎日。味・客単・笑顔とサービス全般がいい。それをどこの店でもやっているからすごい。アメリカで2回ナンバー1中華に輝いている。」

「いずれは日本に帰りたい。今でも日本からのオファーもある。(上海で)不動のナンバー1になってから、日本へ帰りたい。」

「(自分から)中華料理をとったら何にもなくなってしまう。」と若くして天職を見つけた内田氏。日本人シェフが本場・中国に渡って中華料理で勝負する。日本人野球選手が本場・米国に渡って大リーガーとして勝負するのと同じくチャレンジングなことだ。中華料理界のイチローを目指して、オープンから5年間一日も休まず、睡眠4時間でストイックに腕を磨き続ける内田氏。2013年12月にお店を拡張移転し、ますます勢いに乗る彼の今後の活躍に注目したい。

引用先「フードリンク」 掲載記事より